建築

東京/横浜アルキテクト ー(24)ー

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     迎賓館 赤坂離宮 ー2 時をこえる リビングジュエル 

正面 外観

 

さて、引き続き、迎賓館の外観のデザインをもう少し詳しく見てみましょう。

外観は花崗岩でがっしりと造られたネオ・バロック様式の2階建で完全なシンメトリー(左右対称)な宮殿であり、その両翼を手前に広げて、人々を抱き迎えるような形をしています。

 

正面の中央玄関前、馬車廻り(車寄せ)が設けられた上部には、コリント式オーダー4本で特徴的な大きなペディメントを支えるデザインが目を引きます。外壁のなかでも最も込み入った彫刻が施されていて、写真ではわかりにくいのですが、菊花ご紋章 ・旭日賞 ・瑞宝章などの勲章や日本古来の武器を集めたレリーフが見られます。

 

屋根の上部の左右には、青銅製の甲冑や弓矢をまとった武士像が置かれ、その下の壁面には、芸術科学・殖産興業を表すレリーフが施されています。階段室部分の上部には、金の星をちりばめた天球儀とそれを支えるように4羽の翼を広げた霊長が飾られていて、一見すると、国賓を迎える宮殿にこれらの威圧的なデザインはどうなのかな?

と、違和感を感じさせますが、建立当時の世界は帝国主義の時代、欧米列強と戦える軍事力・経済力を示すことが、近代国家を目指す日本には必要だったのでしょう。

また後ほどご紹介しますが、同じことが部屋の内装にも現されていて、当時の西欧の好戦的ともいえるデザインが各所に使われています。

 

 

 

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正面屋根に飾られたレリーフ。甲冑をまとった武士像と世界の覇権を主張するかのような

天球儀と霊長(架空の鳥)、初めて見るとちょっと驚きますよ。                                                                  全体6.bmp

東京/横浜アルキテクト ー(18)ー

 

 

 

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         銀座煉瓦街  3

 

銀座煉瓦街は関東大震災によって壊滅的な被害を受け廃墟と化します。その後の帝都復興事業により、バラックとなった煉瓦街は一掃され、その生涯を閉じました。昭和60年代になってビルの建設現場から当時の煉瓦街の遺構が発見されます。それによると煉瓦街1区画の大きさは間口3間x奥行き5間の15坪だったそうです。このあたりはもともと入江を埋め立てた場所で、湿気がひどく、壁が多くて窓の少ない煉瓦住宅は当時の日本人の生活にはあまり適さず、住民はまどを大きく改造したり、間取りを変更したりしながら苦心して住んでいたそうです。政府から無理やり押し付けられた煉瓦住宅は当初不人気で空家も多かったようです。

 

しかし、築地の外国人居留地に近く、丸の内・日本橋の政治・経済の2大拠点に隣接した煉瓦街には読売・朝日・報知新聞をはじめとして20紙を超える新聞社が集まり、さらに通信社・雑誌社・出版社も次々と銀座煉瓦街に進出してきました。こうして新しい考え方・新しいニュース・新しい商品が集まる日本一の情報集積&発信基地として銀座煉瓦街は発展していったのです。

 

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これは江戸東京博物館に展示されているジオラマです。当時の銀座煉瓦街のいきいきとした様子が伝わってきますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京/横浜アルキテクト ー(17)ー

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                  銀座煉瓦街 2

 

 

前回は、銀座煉瓦街建設の直接的なきっかけが都市の防火対策とスラム街の撤去であったという話をしましたが、本格的な防火都市の建設は明治14年(1881)に施行された火災予防事業「甲第二十七号」によってスタートしました。これは、主要な道路と運河に面する建物をすべて煉瓦造・石造・土蔵造りにすることを定めるとともに、日本橋・京橋・神田・麹町などの家屋に対して屋根を不燃材で葺くことを強制しました。計画は1887年に完了し、以後東京から大火がなくなったと言われています。そして銀座煉瓦街建設のもうひとつの理由は、伊藤博文・井上馨らが主導した欧化政策にありました。当時の日本外交の課題は幕末に結ばれた欧米列強5カ国との和親条約、いわゆる不平等条約の改正にありました。外務卿井上馨は、そのためにはまず中身はともかく、日本が欧米と比肩する近代国家であることを示すことが必要であると考え、銀座煉瓦街のほか「外国人接待所」としての鹿鳴館の建設、日比谷・霞ヶ関に役所を集中させる「官庁集中化計画」などを推進させました。

 

横浜から鉄道によって結ばれた新橋駅に降り立った外国の要人たちの目のまえには、ロンドンのリージェントストリートをおもわせるかのようなハイカラな銀座煉瓦街がひろがり、J、コンドル設計の鹿鳴館では夜な夜な要人をもてなす舞踏会が催され、そして霞ヶ関には文明国家のあかしである、司法省や東京裁判所などのバッロク都市をおもわせる壮大な建築が立ち並ぶ・・・

急激な欧化政策をとった井上馨はそんな近代国家日本の姿を思い描いていたのでしょうか。

 

 

 

東京/横浜アルキテクト ー(14)ー

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東京駅   ー3 

 

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写真は現在復元工事が進められている丸の内駅舎の様子ですが、東京駅のデザインの特徴がよく見てとれます。古典建築の基本はオーダーと呼ばれる独立柱によって成り立っています。そしてこのオーダーのデザインには厳格なルールがあってドリス式・イオニア式・コリント式と呼ばれる様式が採用されます。ルネサンスでは付け柱やピラスターという形で壁の中にオーダーが現れてくるんですが

東京駅舎の2階部分に規則正しく配置されたコリント式の列柱がまさにそうですね。

それから規則正しく並んだ窓の上部に見られるペディメントと呼ばれる三角形の破風、これはギリシャ・ローマの神殿をあらわしているんですが、

ルネサンス様式の窓には必ず三角形や櫛型のペディメントがあるので建物を見る時に気をつけておくと面白いですよ。

もうひとつ特徴的なのは赤レンガの外壁に白い石のボーダーを織り交ぜたデザインがあります。赤レンガだけでは重く、単調になりがちなファサードに軽快な印象を与える辰野金吾独自の手法で辰野式と呼ばれています。

 

 

もうすぐ完成当時の姿に復元される東京駅ですが、ここに至るまでには紆余曲折様々な論争がありました。いまでも反対する意見は多いんです。その辺の事情はまた次回に。

東京/横浜アルキテクト -(12)-

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丸ノ内のクラシック建築をあじわう

 

時代のうねりに翻弄されビジョンなきまま統一と混在を繰り返し進化をつづける丸ノ内 ですが、日本の近代建築の足跡を残す歴史的建造物がまだ多く保存されています。今回からはそんなクラシック建築を一緒に楽しみましょう。

 

丸ノ内といえばやっぱり東京駅でしょう。

東京駅は大日本帝国憲法が発布された明治22年(1989)東京市区改正条例に伴って中央停車場として位置決定され、明治39年辰野金吾による設計がスタートし、大正3年に竣工・開業しました。

長さ331M、世界最大規模の駅舎は躍進する明治日本を象徴するかのような威容を誇り、まさしく国家の栄光を示すものとして当時の人々の目に映ったことでしょう。当初は最新の鉄筋コンクリート造で計画されたようですが、新しい工法にどうしても信頼を持てなかった辰野は結局、実績のある鉄骨レンガ造を選択しました。完成時は3階建でしたが東京大空襲で駅舎は炎上し、その後の改修で2階建に、また特徴的だったドーム屋根は8角形の屋根に修復されました。

現在、東京駅は完成当時の姿に復元する工事が急ピッチで進められています。

 

 

tokyostation1.jpeg 竣工当時の東京駅の様子

辰野金吾晩年の作品である東京駅舎は英国クイーン・アン様式を取り入れただけでなく、デザインにも様々な工夫がなされています。

その辺りの話はまた次回に。

 

 

 

 

 

東京/横浜アルキテクト 丸の内編ー(11)ー

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現在(第4世代)の丸の内

 

明治期に日本初のオフィスビルが誕生した赤レンガ街の第1世代・大正期から戦前期にSRC造、RC造の新技術の導入により、大規模化した第2世代・戦後の美観論争を契機に100Mを超える高層化がすすんだ第3世代・そして平成をむかえ、次々と超高層タワーへの建替えがすすみ、新たなスカイラインが造られつつある現在の街並みは丸の内の第4世代といえるでしょう。

東京銀行協会ビル、DNタワー、丸の内ビルディング、三菱信託本店ビル、明治安田生命ビル、丸の内オアゾ、新丸の内ビルディング、三菱パークビルディングなどの超高層タワーが平成になって競うように建設されています。

賛否両論様々ですが、特徴的なのは高さ31Mの表情線と歴史的建造物の保護を日本人的な曖昧さで、とりあえずの解決が図られながら建設されているという点があげられます。

現在建替えがすすんでいる東京中央郵便局もそうですよね。

 

 

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現在の仲どうりの様子。31Mのラインが保存された上にタワーが乗っているかのような街並み

 

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日比谷道りから見た様子。右端が明治生命館を保存しながら建てられた明治安田生命ビル

 

 

様々な問題をかかえながらも丸ノ内は規則的に、そしてスパイラルのように統一と混在を繰り返しているかのようです。歴史的景観の保存と時代の要請、矛盾する課題に応えながらこれからも丸ノ内は進化しつづけていくのでしょう。

 

 

 

東京/横浜アルキテクト ー丸の内編(9)ー

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「丸の内美観論争」勃発

 

1963年の建築基準法改正(絶対高さ制限の撤廃)を契機に丸の内の景観をめぐって様々な意見の対立が巻き起こります。

 

1966年・東京海上ビル超高層建替え計画(高さ127M)が打ち出されたのをきっかけに、「丸の内美観論争」が勃発しました。東京都は美観条例を制定して超高層ビルの規制を意図します。三菱地所や文化人たちが規制に賛同しますが、建築関係5団体は建築規制反対意見書を都市計画審議会に提出し、猛然と反発。佐藤栄作首相の「皇居を見下ろすような超高層ビルはけしからん」発言で政治的様相をも呈していきます。

 

そのような状況の中、前川国男設計の新東京海上ビルが建築確認申請を提出。しかし、東京都はこれを却下、東京海上火災側もこれを不服として建築審査会に再審請求、建築界も東京都の態度に反対を表明するなど議論は混迷を極めます。

結局、政・財・官・民を巻き込んでの大論争となった「丸の内美観論争」は最高高さ100Mで妥結し、1974新東京海上ビル本館が完成しました。

 

 

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       日比谷上空からみた丸の内。東京海上ビルや三菱銀行

       などが超高層ビルに建替えられた時期の様子。

 

       これをきっかけに丸の内の景観は再び大きく変わっていく

       ことになるのです。

東京/横浜アルキテクト ー丸の内編(5)ー

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  一丁ロンドンを創った男  「ジョサイア・コンドル」  

 

ジョサイア・コンドルは明治10年(1877年)に明治政府の招きで来日しました。彼はロンドン大学で学び、ゴシック建築の権威であるパージェスの設計事務所で腕を磨き、当時若手の登竜門であったソーン賞設計コンペで優勝しました。24歳の若さでいわゆる「お雇い外国人」として工部大学校造家学科の初代教授に就任し、彼によって日本に本格的な西欧式建築が紹介されました。彼が日本の近代建築の父と呼ばれるのは東京駅や日銀本店を設計した辰野金吾・迎賓館の片山東熊・三菱赤レンガ街に携わった曽ね達蔵など明治期の優れた建築家を育てたからです。(彼らが日本人で始めての建築家です)コンドルが創った建築は赤レンガ街1-3号館・鹿鳴館・ニコライ堂・岩崎邸・三井倶楽部など70棟にもおよびその優美なデザインと完成度の高さは当時の日本に一大センセーションを巻き起こしました。

 

コンドル.jpgコンドルは日本文化にも造詣が深く、花柳流の舞踏家前波くめと結婚し、自らは川鍋暁斎に師事し、日本画を学びました。そして1920年(大正9年)68年の生涯を日本で閉じました。今は妻と共に護国寺に静かに眠っています。

東大のキャンパスにはあまり知られてはいませんが、コンドルの像が建てられています。遠くを見つめるその視線の先には、きっと若くして離れ二度と戻ることの無かった故郷ロンドンがあるのでしょう。

 

                              

東京/横浜アルキテクト ー丸の内編(3)ー

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 丸の内初のオフィスビルとして明治27年(1894)に建設されたのが「三菱1号館」(右の一番手前)、大正3年に東京駅が完成する20年も前のこと。設計したのは当時の工部大学校造家学科(後の東大建築学部)の教授で、日本の近代建築の父と呼ばれるイギリス人建築家、J.コンドル。

 

その後、この馬場先どうりを中心に「三菱13号館」まで赤レンガ造の優美なオフィスビルや集合住宅が次々と建てられ、やがて「一丁ロンドン」と称される街並みが誕生しました。

 

「三菱1号館」は関東大震災や東京大空襲にも耐えて生き残りましたが、高度成長下の近代的なオフィス需要の高まりの中、昭和43年(1968)に取り壊され74年の歴史に幕を閉じました。 下の写真は近頃復元された「三菱1号館」、残されたわずか数枚の設計資料から蘇らせるのは大変な仕事だったでしょう。しかし、いかに素晴らしい出来栄えでも建物が刻んできた歴史の重みは再現のしようが無いですよね。4月には美術館としてオープンするそうですから興味のある方は僕と一緒に当時の「一丁ロンドン」に想いをはせてみませんか。

 

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東京/横浜アルキテクト ー丸の内編(2)ー

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丸の内編(2)

「ビジネス街としての丸の内」の歴史は、明治23年三菱の二代目岩崎弥之助が10万坪余りの土地を政府から高額で払い下げを受けたことから始まります。ここは江戸時代には大名屋敷や武家屋敷が立ち並んでいた所ですが、明治維新後は軍用地として利用され、陸軍の錬兵場という名の茫漠とした荒野でした。その後「三菱ヶ原」と呼ばれていたこの地区を日本のビジネスセンターにしようと考えた弥之助はいち早く木造を禁止し、容積率やスカイラインをはじめとする細かな建築制限を打ち出しました。模したのはロンドンのロンバート街だと言われています。

個々の建物のデザインは少しずつ違うものの、軒の高さを50尺(約15M)に揃えストリート性と街並みの統一性が強調されています。うーん、何度見てもエキゾチックですよね。

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現在の日本の社会では、「建築=建設業」という短絡的で視野の狭い見方が強く、建築の世界が長い歴史の中で培ってきた、本来の豊かな可能性に接する機会はこれまで意外と少なかったように思います。 そこで、東京・横浜アルキテクトと題して日本の近代建築の足跡をたどりながら、「人間の生活の器」として建築が社会に対して果たすべき使命を考察します。

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