2010年9月
東京/横浜アルキテクト ー(29)ー

岩崎邸 ー 3 明治を代表する実業家の夢の邸宅
今回は洋館とつながる和館・ビリヤード場などを紹介します。
洋館と渡り廊下でつながれた和館は、完成当時は建坪550坪にも及び、洋館を遥かにしのぐ規模の建物でした。
書院造りを基調とした純和風建築です。施工は政財界の大物たちの屋敷を数多く手がけた棟梁・大河喜十郎です。迎賓館としての性格が強い洋館に対して、和館は岩崎家の日常生活の場として使用されました。明治を代表する日本画家・橋本雅邦の障壁画が残る大広間など、巧緻を極めたつくりは一見の価値があります。しかし、和館の大部分は取り壊され、無神経な鉄筋の建物がすぐ間近にまで迫っています。
写真にある樹木は、久弥がわざわざ中国から取り寄せ、こよなく愛したというモッコクの樹だそうです。
こちらは、洋館と地下通路でつながれているビリヤード場です。当時は外国の賓客をもてなす ためのビリヤード場が必要だったのでしょう。校倉造り風の外壁・彫刻が施された柱・軒を深く出した大屋根など、木造ゴシック調の建物です。
山小屋をおもわせるコテージ風の建築は当時の日本では非常に珍しかったのではないでしょうか。
岩崎邸の屋敷を取り囲む、イギリス積みのレンガ塀も重要文化財に指定されています。こちらは屋敷の北側、東大の龍岡門につながる無縁坂。森鴎外の小説「雁」の舞台になったことでも有名ですね。
そういえば、さだまさしの曲にもありましたよね。
延々と続くレンガ塀と生茂った樹木が、当時の面影を忍ばせます。
頑丈な本郷台地に建つ岩崎邸は、関東大震災にも損傷をうけることなく、岩崎家は広大な庭を被災者に開放し、仮設住宅や飲食の世話をしたそうです。戦後はGHQに接収され、キャノン機関として使用されます。その後の財閥解体によって、屋敷は国に接収され岩崎家は成田に越していきます。
司馬遼太郎は「街道を行く・本郷編」のなかで岩崎邸についてこう語っています。
「この邸は明治国家の勃興を見、その没落を見、敗戦後の荒みまで見たのである・・・」
時代の風が吹き抜ける岩崎邸は、多難なこの平成の時代をどのように見つめているのでしょうか?
東京/横浜アルキテクト ー(28)ー

岩崎邸 ー 2 明治を代表する実業家の夢の邸宅
それではガイドさんの案内に従って岩崎邸の内部を見ていきましょう。
この洋館の特筆すべきは、なんといっても木工彫刻の素晴らしさですね。ジャコビアン様式のデザイン・天井の造形の美しさ・多彩な床の寄木細工・100年の時が醸しだす深い味わいの塗装など、思わずため息が出てしまいます。
こちらは内部の大階段。ジャコビアン様式の彫刻が施された双子柱が美しすぎます。当時のままのステンドグラスから差し込む柔らかな光が心地良いですね、それにしてもこれだけの大きなはねだしの階段をどうやって 木造で支えているんでしょう?地下に続く階段は非公開、ビリヤード場につながる地下通路があるそうです。
こちらは1階のホールです。絨毯で養生されていてわかりずらくて残念ですが、樫・紫檀・黒檀で作られた寄木細工の床は見事です。
こちらは2階客室。 壁に貼られているのが 有名な「金唐革紙」です。当時ヨーロッパで流行していた、革に様々な模様を写し取り、金で装飾する技法を、日本風に紙で表現したしたものです。戦後GHQによってこの壁はペンキで塗りつぶされたんですが、苦心して再現されました。ちなみに一部屋あたり1億円ほどかかったそうです。左端に見える暖炉も大理石の彫刻が見事です、よく見ると各部屋ごとにデザインが微妙に変えられています。
こちらは婦人用の客室。 天井に施されているのはなんとシルクの刺繍で、オリエンタルムードいっぱいの部屋になっています。
このシルクの刺繍はあまりに繊細過ぎて手が付けられず、当時のまま残されています。
こちらは庭園に向かって開く大きな2階バルコニーです。 イオニア式の柱が優雅ですね。J・コンドルの建物には必ずこの形式のバルコニーが設けられていますが、これは日本の高温多湿な気候を考慮したからだそうです。ちなみに日本ではじめてバルコニーを設けた住宅は、長崎のグラバー邸だといわれています。今では当たり前のバルコニーも、実は日本の気候に辟易としたイギリス人の手によって広まっていったんですね。
これは1階のバルコニーに貼られている、当時流行していたビクトリアンタイルです。最近になって、一枚のタイルが見つかり、裏面の刻印からイギリス・ミントン社製のものであることが判明しました。ビクトリア朝時代のタイルが、はるか遠く海を越えて日本の洋館に使われているのも感慨深いものがありますね。
岩崎邸洋館は、主に年1回の岩崎家の集まりや外国人や賓客を招いてのパーティーなどに使用されました。
当時300年の歴史を持つ三井や住友財閥に対して、時代の新興勢力であった三菱を象徴する迎賓館として、久弥は異国情緒あふれる贅をつくした洋館がどうしても欲しかったのでしょう。それにしてもこの時代にこれほどの洋館を建設する技術が日本にもあったというのが、ちょっと驚きです。施工者が不明というのもどこかミステリアスですね。
東京/横浜アルキテクト ー(27)ー

岩崎邸 ー1 明治を代表する実業家の夢の邸宅
湯島・不忍池のほど近く、小高い丘の上にその邸宅はたたずんでいます。
龍馬ブームにも乗って来館される人たちも増え、ご存知の方も多いと思いますが、今回紹介するのは岩崎邸です。
三菱財閥の初代岩崎弥太郎が、もとは越後高田藩・榊原邸があったこの土地を少しずつ買い足していき、3代目の息子・久弥が明治29年、岩崎家の本邸として建設したものです。かつては一万五千坪を超える敷地に二十棟以上の建物がありましたが、洋館・和館・撞球室(ビリヤード場)のみが現存しています。
設計はたびたび登場するJ.コンドル。岩崎邸は洋館・和館の連続性の美しさなど、稀有な住宅として世界的にも評価が高く、彼の代表作のひとつです。
今回紹介する洋館は、木造2階建・地下室付の本格的なヨーロッパ式邸宅で、彼の晩年の作品に比べると装飾性の強い建物になっている感じがします。全体のスタイルは、イギリス・ルネッサンス様式で、各所のデザインや装飾にジャコビアン様式が多く用いられています。また内部の天井や暖炉や床などにはイスラム風の意匠も取り入れられていて、コンドルの特徴でもある折衷様式の優美なデザインや空間の質の高さがかもしだす奥行きの深さは、見る者を魅了せずにはおきません。
岩崎邸は戦後GHQに接収され、その後の財閥解体政策により国有化されます。昭和36年には重要文化財に指定されましたが、しばらくは荒れ果てた状態だったそうです。平成13年に指定管理者制度によって東京都の管理となり、3年間をかけて内外の改修が行われ、平成15年通年公開がかなうようになりました。
龍馬と弥太郎の出会いに始まり、岩崎家の明治の隆盛と戦後の没落。きっと様々なドラマをこの邸宅は見続けてきたのでしょう。
白い瀟洒な洋館はふと、そんな気持ちにさせます。
東京/横浜アルキテクト ー(26)ー

迎賓館赤坂離宮 ー4 時をこえるリビングジュエル
内部空間
今回は見学することができた迎賓館の室内を 紹介します。
日本の外交の表舞台として、各国の賓客を招いてきた迎賓館ならではの装飾様式が随所に見ることができます。
首脳会談や公式晩餐会などの様子が、時々テレビ中継されるので見覚えのある部屋があるかも。
朝日の間
朝日の間は、首脳会談などに使われる部屋です。また国賓が天皇陛下とお別れの挨拶をされる際にも使われる、迎賓館で最も格式の高い部屋だそうです。内装は18世紀のフランス古典主義様式で、天井に描かれた、朝日を背に受けた女神オーロラの絵画にちなんで「朝日の間」と呼ばれています。
羽衣の間
羽衣の名は、フランスの画家が描いた約200平方メートルの大きな天井画に由来しています。謡曲「羽衣」をモチーフにし、曲面画法という珍しい画法で描かれています。中2階にはオーケストラBOXがあり、もともとはここで舞踏会が催されていたのでしょう。フランスから輸入した重さ800kgのシャンデリアと当時では世界最大級という大鏡が華麗な部屋を演出しています。
彩らんの間
彩らんの間は条約や協定の調印式やテレビインタビューに使用されている部屋で、金箔をはった鳳凰の一種である「らん」という鳥のレリーフがあることから「彩らんの間」と名付けられています。室内の装飾は、ナポレオン1世の帝政時代に流行したアンピール様式と呼ばれるもので 、天馬・甲冑・獅子・矢などの軍体調のモチーフが特徴です。天井も戦場で天幕を張ったように見せる楕円形のアーチになっています。
花鳥の間
迎賓館のなかで、最も重厚な感じを与える部屋で、公式晩餐会はここで催されています。「花鳥の間」という名は、格天井の油絵や壁に飾られた七宝焼の材題が花と鳥であることに由来します。部屋の装飾はアンリー2世様式と呼ばれるもので、16世紀後半のフランスルネッサンス様式です。
そのほかにも見学はかないませんでしたが、イスラム色の強い、ムーリッシュ様式で造られた「東の間」やムクの大理石のオーダーで飾られた正面玄関から2階大ホールの華麗な空間、ローマンモザイクが貼られた廊下など、その質の高さはとても言葉では伝え切れません。
明治42年に完成した迎賓館に使用された、鉄骨・設備機器・家具調度品等の大半は欧米から輸入され、日本人だけでなく多くの欧米の芸術家も参画し、まさに日本の総力をあげて創られました。
「我建築界は今や済々たる多士を有す。其の技必ずしも泰西の建築家に下るにあらず」明治期の建築家たちは迎賓館の完成をみてこう語り合いました。西欧の建築を取り入れて40年ほど、やっと自分たちもその域にたどりついたという感覚があったのでしょう。
いわば迎賓館は、西欧に学んだ明治の様式建築の卒業証書ということなんですね。