東京/横浜アルキテクト ー(17)ー

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                  銀座煉瓦街 2

 

 

前回は、銀座煉瓦街建設の直接的なきっかけが都市の防火対策とスラム街の撤去であったという話をしましたが、本格的な防火都市の建設は明治14年(1881)に施行された火災予防事業「甲第二十七号」によってスタートしました。これは、主要な道路と運河に面する建物をすべて煉瓦造・石造・土蔵造りにすることを定めるとともに、日本橋・京橋・神田・麹町などの家屋に対して屋根を不燃材で葺くことを強制しました。計画は1887年に完了し、以後東京から大火がなくなったと言われています。そして銀座煉瓦街建設のもうひとつの理由は、伊藤博文・井上馨らが主導した欧化政策にありました。当時の日本外交の課題は幕末に結ばれた欧米列強5カ国との和親条約、いわゆる不平等条約の改正にありました。外務卿井上馨は、そのためにはまず中身はともかく、日本が欧米と比肩する近代国家であることを示すことが必要であると考え、銀座煉瓦街のほか「外国人接待所」としての鹿鳴館の建設、日比谷・霞ヶ関に役所を集中させる「官庁集中化計画」などを推進させました。

 

横浜から鉄道によって結ばれた新橋駅に降り立った外国の要人たちの目のまえには、ロンドンのリージェントストリートをおもわせるかのようなハイカラな銀座煉瓦街がひろがり、J、コンドル設計の鹿鳴館では夜な夜な要人をもてなす舞踏会が催され、そして霞ヶ関には文明国家のあかしである、司法省や東京裁判所などのバッロク都市をおもわせる壮大な建築が立ち並ぶ・・・

急激な欧化政策をとった井上馨はそんな近代国家日本の姿を思い描いていたのでしょうか。

 

 

 

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現在の日本の社会では、「建築=建設業」という短絡的で視野の狭い見方が強く、建築の世界が長い歴史の中で培ってきた、本来の豊かな可能性に接する機会はこれまで意外と少なかったように思います。 そこで、東京・横浜アルキテクトと題して日本の近代建築の足跡をたどりながら、「人間の生活の器」として建築が社会に対して果たすべき使命を考察します。

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