2010年6月

東京/横浜アルキテクト ー(17)ー

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                  銀座煉瓦街 2

 

 

前回は、銀座煉瓦街建設の直接的なきっかけが都市の防火対策とスラム街の撤去であったという話をしましたが、本格的な防火都市の建設は明治14年(1881)に施行された火災予防事業「甲第二十七号」によってスタートしました。これは、主要な道路と運河に面する建物をすべて煉瓦造・石造・土蔵造りにすることを定めるとともに、日本橋・京橋・神田・麹町などの家屋に対して屋根を不燃材で葺くことを強制しました。計画は1887年に完了し、以後東京から大火がなくなったと言われています。そして銀座煉瓦街建設のもうひとつの理由は、伊藤博文・井上馨らが主導した欧化政策にありました。当時の日本外交の課題は幕末に結ばれた欧米列強5カ国との和親条約、いわゆる不平等条約の改正にありました。外務卿井上馨は、そのためにはまず中身はともかく、日本が欧米と比肩する近代国家であることを示すことが必要であると考え、銀座煉瓦街のほか「外国人接待所」としての鹿鳴館の建設、日比谷・霞ヶ関に役所を集中させる「官庁集中化計画」などを推進させました。

 

横浜から鉄道によって結ばれた新橋駅に降り立った外国の要人たちの目のまえには、ロンドンのリージェントストリートをおもわせるかのようなハイカラな銀座煉瓦街がひろがり、J、コンドル設計の鹿鳴館では夜な夜な要人をもてなす舞踏会が催され、そして霞ヶ関には文明国家のあかしである、司法省や東京裁判所などのバッロク都市をおもわせる壮大な建築が立ち並ぶ・・・

急激な欧化政策をとった井上馨はそんな近代国家日本の姿を思い描いていたのでしょうか。

 

 

 

東京/横浜アルキテクト ー(16)ー

   

mitubisi55big.jpgのサムネール画像 

   銀座煉瓦街 -

 

丸の内のクラシック建築をめぐる前にちょっと触れておかなければならないのが、今はもうその姿を見ることができない銀座煉瓦街です。

なぜかというと、いくつかの理由により日本の都市の近代化が、この銀座煉瓦街の建設から始まったからなんです。

 

明治5年(1872)2月26日和田倉門内旧会津藩邸からあがった火の手は、瞬く間に燃え広がり銀座・築地一帯の41町5000戸を消失させました。いわゆる「銀座の大火」です。富の蓄積を一瞬にして灰にしてしまう都市の大火は日本の近代化を目指す明治政府にとって解決すべき喫緊の課題でした。この頃の銀座は、江戸時代に銀貨の貨幣鋳造所があった場所で日本橋・京橋とは違い、小商人や職人が多く住むみすぼらしい街でした。おりしも「銀座の大火」がおこったこの年の9月、横浜と築地の外国人居留地を結ぶ日本初の鉄道が新橋ー横浜間で開業します。新橋駅の目の前に位置する銀座をなんとかしたいと考えていた政府は、これさいわいとばかりに「銀座の大火」の4日後には東京府下の建物をすべて煉瓦で建設するとの方針を打ち出しました。

 

こうして半ば強制的に銀座煉瓦街の建設がスタートします。設計は政府のお雇い外国人であったイギリス人のトーマスJ・ウォートルス。彼は当時、ロンドンで流行していた階上にバルコニーを張り出すジョージアン方式を採用。その街並みは、約27Mに拡幅された馬車道と、街路樹とガス灯が配された約6Mの歩道で構成された統一感のあるものでした。着工から1年後の明治6年には現在の銀座どうりに面する部分の煉瓦街が完成、以後も継続的に建設がすすめられ明治10年に全計画を完了しました。

 

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 完成当時の銀座煉瓦街の様子。1階の柱がドリス式オーダーで造られているのが解りますね。壁は赤煉瓦の上に漆喰かなにかで仕上げられているんですかね?街路樹は当初、桜・楓・松の樹が植えられたそうですがすぐに枯れてしまい、後に「銀座の柳」に植え替えられたそうです。右手前が現在の松坂屋がある場所らしいので、銀座6丁目の交差点あたりの街並みを見ている感じですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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F profile

現在の日本の社会では、「建築=建設業」という短絡的で視野の狭い見方が強く、建築の世界が長い歴史の中で培ってきた、本来の豊かな可能性に接する機会はこれまで意外と少なかったように思います。 そこで、東京・横浜アルキテクトと題して日本の近代建築の足跡をたどりながら、「人間の生活の器」として建築が社会に対して果たすべき使命を考察します。

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