2010年5月

東京/横浜アルキテクト ー(15)ー

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東京駅 ー4

 

現在、開業当時の姿に戻す復元工事が行われている丸の内駅舎ですが、この是非をめぐって様々な意見の対立がありました。

ちょっと東京駅に関する主な出来事をさかのぼってみましょう。

 

 

1.大正3年、ヨーロッパで勃発した第1次世界大戦に日本も参戦、ドイツ領青島を占領します。この年の12月東京駅の開業式と青島攻略の戦勝記念式典がセットで盛大に開催されました。

2.大正12年関東大震災の甚大な被害を受け、市区改正と帝都復興事業がスタート。15年には駅前40間道路と皇居前広場を結ぶお堀を埋め立て現在の行幸道りが完成し、皇居・行幸道り・丸の内駅舎が連担してプロトコール(外交儀礼)としてのを機能を担います。

3・昭和5年、帝都復興事業完成を祝う帝都復興際が二重橋前広場で行われ、その後皇居周辺地域が「美観地区」に指定されます。

4・昭和20年、5月25日深夜の東京大空襲により駅舎は炎上、レンガ壁は残るが屋根は焼け落ち内装も大半が失われました。翌年には大変な財政難・資材難のなか復旧工事がスタートし、3階建てを2階建てに、また特徴的だった南北のドーム屋根は八角形の屋根に改修されました。

5.昭和56年、当時の国鉄が丸の内駅舎を35階建の超高層ビルに建てかえる東京駅再開発構想を発表。日本建築学会が丸の内駅舎の保存要望書を提出し、保存と建替えに関する論争が本格化します。

6.昭和62年、「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」が三浦朱門氏らを代表に発足し、赤レンガ駅舎の保存・復元を求める市民運動がスタート。

7.その後、様々な議論を経て平成14年、石原都知事とJRの協議によって東京丸の内駅舎を創建時の姿に復元すると決定。翌年、国の重要文化財に指定され、平成19年東京丸の内駅舎の復元工事がスタートしました。

 

 

なにはともあれ、行幸道りをはさんで皇居と向き合う日本の中央駅が簡単に壊されることなく保存されるわけですからよかったですよね。

では何故、この復元工事に反対する意見が多かったのでしょうか?

 

問題は「創建時の姿に戻す」というところにあるようです。東京駅の歴史を振り返ってみると、第一次世界大戦の戦勝記念碑であり、関東大震災後の帝都復興のシンボルであり、敗戦後の日本復興のシンボルであり、近世日本の歴史の証人としての意味合いが大きいということなのでしょう。「建築保存とは建物の物的保存だけにその意味を求めるのではなく、文化や歴史の保存であり継承であるべきだ」

いうのが創建時の姿に戻す復元することに反対する意見の主旨なのでしょう。

みなさんはどう考えますか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京/横浜アルキテクト ー(14)ー

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東京駅   ー3 

 

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写真は現在復元工事が進められている丸の内駅舎の様子ですが、東京駅のデザインの特徴がよく見てとれます。古典建築の基本はオーダーと呼ばれる独立柱によって成り立っています。そしてこのオーダーのデザインには厳格なルールがあってドリス式・イオニア式・コリント式と呼ばれる様式が採用されます。ルネサンスでは付け柱やピラスターという形で壁の中にオーダーが現れてくるんですが

東京駅舎の2階部分に規則正しく配置されたコリント式の列柱がまさにそうですね。

それから規則正しく並んだ窓の上部に見られるペディメントと呼ばれる三角形の破風、これはギリシャ・ローマの神殿をあらわしているんですが、

ルネサンス様式の窓には必ず三角形や櫛型のペディメントがあるので建物を見る時に気をつけておくと面白いですよ。

もうひとつ特徴的なのは赤レンガの外壁に白い石のボーダーを織り交ぜたデザインがあります。赤レンガだけでは重く、単調になりがちなファサードに軽快な印象を与える辰野金吾独自の手法で辰野式と呼ばれています。

 

 

もうすぐ完成当時の姿に復元される東京駅ですが、ここに至るまでには紆余曲折様々な論争がありました。いまでも反対する意見は多いんです。その辺の事情はまた次回に。

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現在の日本の社会では、「建築=建設業」という短絡的で視野の狭い見方が強く、建築の世界が長い歴史の中で培ってきた、本来の豊かな可能性に接する機会はこれまで意外と少なかったように思います。 そこで、東京・横浜アルキテクトと題して日本の近代建築の足跡をたどりながら、「人間の生活の器」として建築が社会に対して果たすべき使命を考察します。

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