2010年3月
東京/横浜アルキテクト ー丸の内編(10)ー
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「丸の内マンハッタン計画」
1965年の東京海上ビル建替え後、丸の内では建物の高さを概ね100Mで抑えるという不文律ができあがっていったようです。
ところが1988年、丸の内の最大の地権者である三菱地所が「丸の内マンハッタン計画」を発表したのを機に、再び景観論争が沸き起こります。
この計画は容積率を世界最高水準の2000%まで引き上げ、丸の内一帯に高さ200M程度の超高層ビル60棟を建設し、同地区を世界有数の国際金融センターにしようというものでしたが、このプランをめぐって再び丸の内の景観に対する大論争が展開されました。
半年後、「大手町・丸の内・有楽町再開発推進協議会」 が設立されこの地区の街づくりの合意形成を探る動きが起こります。その後、都・千代田区・JRも参画する「街づくり懇談会」へと発展し、現在も協議が進められています。
しかし、様々な議論がなされる間にも100Mを超える超高層ビルが次々と建設され、ビジョンなきままの街づくりが進行しているのが現状です。

「丸の内マンハッタン計画」のイメージ図。まるで皇居の目の前に墓石が並んだような計画にギョっとしませんか?このプランはおりしもバブルの絶頂期に発表されました。当時のテナント料は一坪60000円
膨大な投資もわずか数年で回収できると踏んでいたようです。まさに経済至上主義の価値観が生んだ産物と言えるでしょう。
東京/横浜アルキテクト ー丸の内編(9)ー
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「丸の内美観論争」勃発
1963年の建築基準法改正(絶対高さ制限の撤廃)を契機に丸の内の景観をめぐって様々な意見の対立が巻き起こります。
1966年・東京海上ビル超高層建替え計画(高さ127M)が打ち出されたのをきっかけに、「丸の内美観論争」が勃発しました。東京都は美観条例を制定して超高層ビルの規制を意図します。三菱地所や文化人たちが規制に賛同しますが、建築関係5団体は建築規制反対意見書を都市計画審議会に提出し、猛然と反発。佐藤栄作首相の「皇居を見下ろすような超高層ビルはけしからん」発言で政治的様相をも呈していきます。
そのような状況の中、前川国男設計の新東京海上ビルが建築確認申請を提出。しかし、東京都はこれを却下、東京海上火災側もこれを不服として建築審査会に再審請求、建築界も東京都の態度に反対を表明するなど議論は混迷を極めます。
結局、政・財・官・民を巻き込んでの大論争となった「丸の内美観論争」は最高高さ100Mで妥結し、1974新東京海上ビル本館が完成しました。

日比谷上空からみた丸の内。東京海上ビルや三菱銀行
などが超高層ビルに建替えられた時期の様子。
これをきっかけに丸の内の景観は再び大きく変わっていく
ことになるのです。
東京/横浜アルキテクト ー丸の内編(8)ー
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戦後復興と「丸の内総合改造計画」
丸の内の戦後復興は昭和25年頃から始まり、東京ビルヂングを皮切りに永楽ビルヂング、そして戦後復興のシンボルであった新丸の内ビルヂング、さらには大手町ビルや新大手町ビルなどの大型オフィスビルが相次いで建設され、経済の復興とともに近代化が加速していきます。
昭和34年、「美観地区」の指定に伴い「丸の内総合改造計画」が発表され、馬場先どうりを中心に残っていた古い赤レンガ街は、次々と高さ100尺(31M)のオフィスビルに建て変えられて行きます。その際、南北に通っていた2本の裏どうりが拡幅され、丸の内の代表的な街並みが見られる現在の仲どうりが完成しました。「丸の内総合改造計画」は高度経済成長期に入り、とにかく盛り上がるビル需要と、老朽化した赤レンガ街を再び近代的なオフィス街に再生させることが目的でしたが、ここでもストリート性の重視や街並み全体の統一性など明治期の街づくりの思想が継承されていたように思います。
施工技術の進化もあり、明治期に比べはるかに早いスピードで近代的な街並みが出来上がっていったのです。ビルのファサードや柱のグリッドも統一され、高さが31メートルで建物が建ち並ぶ様子は「丸の内スカイライン」と呼ばれ、世界各国からも賞賛されました。
当時の写真を見比べてどうでしょう。ちょっと複雑な気持ちになりません?

大正初期 高さ50尺(15M)の丸の内仲どうり赤レンガ街の様子
昭和40年代 高さ100尺(31M)に揃えられた仲どうりのスカイライン
東京/横浜アルキテクト ー丸の内編(7)ー
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丸ビル完成から昭和戦前の丸の内
丸ビルが完成したその年、大正12年9月1日11時58分、帝都を関東大震災が襲います。警視庁・帝国劇場・東京府庁舎などが炎上、建設中の内外ビルは倒壊・丸ビル・郵船ビルも少なからず被害を受けました。
この時期のビジネスセンターはまだ日本橋・兜町界隈でしたが、木造建築が多かったこの地区は壊滅的な打撃を受けます。結果的に被害の少なかった赤レンガ街に官庁や民間企業が移転し、丸の内のオフィス需要が益々大きくなっていきました。東京・横浜には特別都市計画法が公布され、世界でも例の無い規模の帝都復興事業がスタートします。
丸の内では東京海上ビル新館(S.5年)・第一銀行本店(S.5年)・日清生命館(S.7年)・東京中央郵便局(S.8年)・明治生命館(S.9年)・鉄道省(S.12年)などの多様なオフィスビルが次々と建設されていきます。

昭和9年完成の明治生命館

関東大震災時の丸ビル 外壁にも損傷が見られる
金融恐慌や世界大恐慌など昭和初期は暗い話題の多いなか、丸の内には時代の要請に応えるかのように単体に様々な規模の建物が建築され、ばらばらな状態の街並みになっていったようです。
しかし、丸の内はその後再び見事に再生していきます。その辺の話はまた次回に。