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東京/横浜アルキテクト ー(86)ー

カップ・マルタンの波間に消えたモダニスト ル・コルビュジェの建築 16
1952年、フランス第二の都市マルセイユにそのユニテは完成しました。
フランス政府によって第二次大戦後の復興事業のひとつとして計画された集合住宅。
幼稚園、店舗、ホテル、レストラン、ジムなどを内包し、住民が社会生活を営む小さな都市としての機能を持つ337戸のアパルトマン。

マルセイユの「ユニテ・ダビタシオン(住居単位)」は、戦後の深刻な住宅問題を解決するために、フランス政府があらゆる建築法規を超越してもいいという特別な条件で、コルビュジェに設計を依頼した実験的集合住宅です。
フランスではマルセイユのユニテ・ダビタシオンのことを一般的に「シテ・ラデュース(輝ける都市)」と呼んでいます。
おもえば1922年の「300万人のための現代都市」から始まる、コルビュジェが長い間、夢見続けていた「輝ける都市」が現実のものとなったのです。
「今度こそ事はなる。過不足ない大きさのユニテ・ダビタシオンが建つのだ。25年にわたる闘いと研究の積み重ねが現実のものとなるのだ・・・」工事着工が近づくにつれ、コルビュジェは喜びに興奮していました。

しかし、これまでの苦難の道と同様に、保守的なブルジョアジーから非難や抗議がコルビュジェのもとに集中します。「非人間的」、「モルモット小屋」・・・
それらは、あらゆるメディアで繰り広げられ、ついには裁判にまで発展していきます。
しかし、コルビュジェは自身が提唱するモダン建築のエッセンスが、今までの生活様式に革命をもたらし新しい時代にふさわしい住空間になると信じて疑いませんでした。

マルセイユのユニテ・ダビダシオンに見られる、モデュロールやブリーズ・ソレイユなどのコルビュジェ後期の作品の重要なエレメント。
337戸の住戸を支えるピロティーや豪華客船をイメージさせる屋上庭園 の造形美。
そしてコンクリート打ち放しのブルータルな表現。まさにこのユニテにはコルビュジェのすべてが凝縮されているのです。
東京/横浜アルキテクト ー(85)ー

カップ・マルタンの波間に消えたモダニスト ル・コルビュジェの建築 15
1914年8月に勃発した第一次世界大戦はヨーロッパ全土に未曾有の被害をもたらしました。
大戦が終結しヴェルサイユ条約が締結されると、平和な世界を継続させるためには若者たちの啓蒙が不可欠であり、そのために世界各国の若者が国境をこえて交流し学ぶための施設として1927年に「パリ国際大学都市」が設立されました。
今日では38カ国の学生館に140カ国をこえる国の若者が滞在し、グローバリゼーションの潮流の中でその役割がますます重要視されています。

こちらはサヴォア邸の翌年、1933年に完成した「パリ国際大学都市」に建つコルビュジェの「スイス学生会館」です。
「白の時代(プリスム作品)」の到達点といわれるサヴォア邸。その屋上庭園の自由な曲線を描く壁に見られたそれまでにないプリミティブな表現。
それがこのスイス学生会館では、1階のサロンの荒々しい石の乱張りとファサードの湾曲し反り返った壁に、より発展した形で表現されています。
「ラ・ロッシュ邸」にもこの湾曲した壁は見られますが、機能性や合理性とは関係なくここまで大胆に採用したのはコルビュジェの作品では初めてです。

学生会館の個室群を地上から持ち上げているピロティーの柱は様々なスタディーの結果、犬の骨の形を採用したとか。このとても居心地のよさそうなピロティーが、後のユニテダビタシオンのピロティーにつながっていきます。
華奢なスチールと大胆なガラスブロックの組み合わせが美しい階段室。

こちらはサロンスペースの壁画、第二次大戦後コルビュジェ自身が描いたものです。ここで様々なイベントが開かれています。
サロンのいたる所に飾られているコルビュジェのスケッチ。
こちらは南側のファサード。完成時はガラスブロックでしたが、後に外付けのブラインドを取り付けるなどの改修がなされています。
コルビュジェの「スイス学生会館」は1986年、フランスの歴史的記念建造物に認定されました。
ユネスコの世界遺産への登録準備が進むなか多くの学生が日々を送っていると同時に、シーズンには週に400人をこえる見学者が訪れています。
豪華なつくりの各国の学生会館が多い中、コルビュジェの「スイス学生会館」はひときわ異彩を放っています。
年々劣化する建物と上手に付き合いながら、常にアバンギャルドであったコルビュジェの建築に住む。そんな貴重な体験を求める若者たちと、日々修繕を重ねながら建築家と建物の価値を維持しようとする成熟した建築文化がこの建築を支えています。
東京/横浜アルキテクト ー(84)ー

カップ・マルタンの波間に消えたモダニスト ル・コルビュジェの建築 14

緑の中に映える純白と宙に浮いたようなフォルムが美しいサヴォア邸。現在も毎日多くの人々がこのヴィラの見学に訪れています。
それにしてもこの保存と管理の状態の良さには驚かされます。とても80余年を経た建物とは思えませんね。
そこには日本にはないフランスの成熟した建築文化があるように思えます。サヴォア邸が完成後どのような軌跡をたどってきたか簡単に振り返ってみましょう。
1939年、第二次世界大戦が勃発するとドイツと連合軍の進駐によってサヴォア邸は占拠されてしまいます。その後長い間放置され荒れ果てた状態が続きました。
そして1965年、ポアッシー市当局はこの荒廃したヴィラを取り壊し、新しく高校を建てることを発表しました。この計画が公表されると世界中の建築家から保存を願う手紙や電報が当時のドゴール政権に届けられます。
コルビュジェ自身も「この建物の良さは草に包まれた自然の中に建っている点にある。一棟だけ建っていることと沈黙の内にあることが、魅力の根本的な理由なのである。」と書簡を送っています。あたかもアクロポリスの丘に建つパルテノンのようにと言いたかったのでしょう。
これを受けた文化省大臣アンドレ・マルローは、その高い文化的重要性を認め、サヴォア邸は国の保護下に置かれ一命を取り止めます。
そして、コルビュジェが死んだその年の12月、サヴォア邸は正式にフランスの歴史的記念建造物に指定され修復が進められました。
現在は敷地全体が国の「サヴォア邸保存区域」に指定され、ル・コルビュジェ財団によって管理・修復が行われ良好な状態を保っています。

サヴォア邸が完成した1930年、最愛の妻となるイボンヌと正式に結婚しフランス国籍も取得したコルビュジェは、「近代建築の五原則」をこのサヴォア邸で開花させ、ヨーロッパだけでなく世界中にその名は知れ渡り、建築家として最も充実した時を迎えたのです。
ニューヨークMOMAで「インターナショナルスタイル」として世界中に紹介されたサヴォア邸。しかしコルビュジェは「新しいスタイルだって?冗談じゃあない。住宅に一般化されたスタイルなどない、アメリカはインターナショナルというガラスケースに陳列して大量消費をさせたいだけだ・・・」と反発します。
自身の作品が世界中で評価され有名になっても、持ち前の反骨精神は失われることはありませんでした。そしてそれはその後のコルビュジェ後期の作品へとつながっていくのです。
東京/横浜アルキテクト ー(83)ー

カップ・マルタンの波間に消えたモダニスト ル・コルビュジェの建築 13
コルビュジェは著書「プレシジョン」の中で、サヴォア邸の見どころについてこうコメントしています。
「家は、宙に浮いた箱です。この箱は連続した窓で貫かれていて、建築上の遊びが思い切ってなされています。」
東西南北、自由なファサードによって構成された箱はどれが正面なのか見分けがつきませんが、コルビュジェが推奨するのはエントランスのある北側のファサード。

規則正しく配置された支柱が美しいピロティーが、使用人室やユーティリティーを取り囲んでいます。車もまたU字形のピロティーを通って家の中から出入りします。

ピロティーから生活の場である2階、そして屋上庭園へとつながるスロープ。コルビュジェはこれを建築的プロムナードと名付けました。
横リブによる上昇感と降りそそぐ光によって気持ちが高揚していきます。

ピロティー下の地下室から屋上庭園をつなぐ螺旋階段。この螺旋とスロープと各階の水平な廊下が見事に調和しています。


スロープをあがった2階のリビング。外壁の白はその存在感を誇示しているかのようですが、内部の白は連続した水平窓をとうして外部との一体感を演出しているように見えます。ペリアンがデザインしたチェアーから眺めるテラスも気持ちよさそうです。

青く彩色された壁とトップライトの光が織りなすハレーション。いたるところにこのような自然光を取り込む工夫が見られます。

テラスから屋上庭園へとつづくスロープ。平滑なガラス面に反射する景色も計算されたかのように見えます。
「この家の空気はよどみなく流れ、光も隅々に行き渡って浸透しています。こうした流れや浸透はこれまでの建築に対しての印象にはなかったもの。最新技術がもたらす建築上の自由に慣れていない見学者は、戸惑いを覚えるでしょう」とコルビュジェは語っています。
コルビュジェの「白の時代」の到達点であり、その造形理念の結晶と呼ばれるサヴォア邸。
80余年前の建築が、いまでも訪問者を驚かせ、誰一人退屈させないところにサヴォア邸の凄さがあります。
東京/横浜アルキテクト ー(82)ー

カップ・マルタンの波間に消えたモダニスト ル・コルビュジェの建築 12
1932年2月、ニューヨークのMOMA(近代美術館)において「近代建築国際博覧会」が開かれました。
その博覧会には、ワルター・グロピウス、ミース・ファンデル・ローエ、フランク・ロイド・ライト、J・J・Pアウトなど後に近代建築の巨匠と呼ばれる建築家たちの作品が展示されていました。
それらの作品の中で人々の目を引きつけてやまなかったのが、1931年に完成したコルビュジェの「サヴォア邸」でした。
「サヴォア邸は芸術としての近代建築の正当性と固有性を示している」「建築におけるグローバル・スタンダートとして完成されたスタイルとなるであろう」・・・
その後、博覧会はアメリカ中を巡回し、建築家ル・コルビュジェの名前とその作品は世界中に知れわたることとなったのです。
パリ郊外の街ポワッシーの森の中に建つサヴォア邸。パリの保険会社に勤めるサヴォア氏夫妻のための週末住居であり1931年に完成しました。
コルビュジェの提唱した近代建築の5原則が、伸び伸びと最も純粋な形で表現され、コルビュジェの「白の時代(ピュリズム作品)」の到達点といわれる建築です。
緑の中で際立つ、聡明かつ白く自由なファサードは80余年の時を経たいまも、その美しさは全く色褪せていません。

MOMAで新しいグローバルスタンダートとしての評価を受けたサヴォア邸。しかし、このあとのコルビュジェの作品は厳格なピュリズム的表現から切り離された、よりプリミティブな素材や空間へと変化していきます。
今日も世界各地から建築を志す多くの人たちが訪れるサヴォア邸。次回はこのヴィラの持つ魅力に迫ります。
東京/横浜アルキテクト ー(81)ー

カップ・マルタンの波間に消えたモダニスト ル・コルビュジェの建築 11
シュツットゥガルトのジードルンクは、コルビュジェが提唱した「近代建築の5原則」を広く世に認知させる絶好の機会となりました。
コルビュジェが自らの主張を簡潔に表現したこのあまりに有名な「近代建築の5原則」とは、鉄筋コンクリートの「ピロティー」が建物を空中に持ち上げることによって1階はサーキュレーションやほかの用途に利用され、ピロティーによって失われた1階部分は太陽、空,樹木、眺望が開かれた「屋上庭園」がとってかわり、ピロティーが建物を支えることによって壁が「自由な平面」、「自由な立面」をアレンジするようになり、そして柱から柱まで延びた「水平連続窓」からの光が部屋にあふれる・・・というものでした。
そしてコルビュジェはこの「近代建築の5原則」を、先のジードルンクやクック邸、スタイン邸などの設計をとうしてさらに検証を重ねていきます。


コルビュジェ自身、真のキュービックハウスと呼んだクック邸は平面、立面ともほぼ25フィートの正方形にまとめられています。
ピロティーによって持ち上げられた1階はエントランスと階段ホール以外はすべて開放され、生活の中心となるリビングは眺めのいい3,4階に配置され広々とした屋上庭園へとつながります。屋上庭園からはブローニュの森が一望できパリの中心街にいながら田園気分を味わえるように計画されています。


コルビュジェが単純で純粋な白のキューブの中に複雑な多様性を持たせるというギミックを意識したといわれるスタイン邸。
その特徴は、各階のまったく異なる平面プランに現れています。開放された壁が自由な曲線を描き、各階ごとにまったく違った間取りをアレンジしています。
もうひとつは、4面の異なるファサードに現れます。白い直方体を横断する水平窓とエントランスにかかる大きなキャノピーが印象的な北側のファサードと、大きな立方体をくり抜いたヴォイドがオブジェのように見える南側のファサード、それらとは対照的に無味乾燥な東西のファサード。単純さと複雑さ、画一性と多様性、このような反転の手法による造形的な美しさが多くのコルビュジェ作品に見られます。
自身の主張を洗練させ、建築の原理を「近代建築の5原則」として表現したコルビュジェ。
そしてヨーロッパ発の新しいスタイルとして認知されはじめたコルビュジェの建築が、「インターナショナル・スタイル」として世界中に紹介されるきっかけとなった「サヴォア邸」へとつながっていくのです。
東京/横浜アルキテクト ー(80)ー

カップ・マルタンの波間に消えたモダニスト ル・コルビュジェの建築 10
1926年、コルビュジェのもとへミース・ファン・デル・ローエから一通の手紙が届きます。
それはドイツのシュツットゥガルト郊外バイセンフォーフで開催されるドイツ工作連盟主催の「国際住宅博覧会」に、コルビュジェの「ジードルンク」を出展してほしいという依頼でした。
「ジードルンク」とはドイツ語で集落という意味で建築的には集合住宅を指します。
この博覧会に参加するのは、ピーター・ベーレンス、ブルーノ・タウト、ワルター・グロピウス、ハンス・ロンシャン、J.J.Pアウトなどなど5カ国から総勢16名、まさに当時のヨーロッパのオールスターが集合しました。
ミースはシュッツットガルト市の反対を押し切ってコルビュジェを招聘しました。「あなたの新しい時代にふさわしい建築を当局に見せつけてやりたいんです!」
「このジードルンクで近代建築の方向性にしっかりとした道筋をつけなければならない!」コルビュジェは自身が提唱する「近代建築の5原則」を明確な形で表現しようと考えました。


「あの大きな窓はハレンチだ!・・・この建築は堕落していく時代そっくりの表現だ」「何だ?この竹馬に乗った住宅は!大地から遊離して神を失った現代社会そのものだ」
「故郷を捨て都会に暮らす、遊牧民的なインテリが住む住宅だな・・・そういうインテリだけでこれからの住宅を決めてもらっては困るんだ」
コルビュジェの提案するジードルンクには、すさまじいばかりの激しい批判があびせられました。


しかし、部屋をフレシキブルに利用できる可動家具や、国際的な寝台車と同じ寸法でつくられた廊下からつながる屋上庭園のパノラマなどそれまでの常識にとらわれることのない住宅に、「合理性もそうだが・・・住んで楽しそうな家だな」「コルビュジェの住宅には花がある・・・」など絶賛する声もそれと同じくらい多かったのです。
過去にとらわれないコルビュジェのジードルンクは大きな批判と同時に、人間のより豊かな生活をめざす方向性が示され、多くの人々の共感を呼びました。
そうしてコルビュジェがパリにちりばめた「白い箱」は、ヨーロッパ発の新しい時代のスタイルとして広く認められていくことになったのです。
そして遠く離れた日本でも・・・ このジードルンクは、関東大震災の復興を目的につくられた「同潤会アパート」のプランに大きな影響を与えることになります。
東京/横浜アルキテクト ー(79)ー

カップ・マルタンの波間に消えたモダニスト ル・コルビュジェの建築 9
完成してから40年を過ぎた当時のペサックの住民の声を聞いてみましょう。コルビュジェの提案するモダンに当惑している様子がよくわかります。
「多くの人がなんて広いんだ!と言います。ここにやってきたときは広いと感じるのです。でもトイレに入るとこのトイレはとっても狭い!と言います・・・こっちの寝室は本当に大きい!でもこっちの寝室はちょっと狭すぎるのです・・・」
「部屋の真ん中にある階段、あれは奇妙だし、台所の配置も変、だって正面にホールがあって何も見えないのですから!その場所にうまくおさまっていないように見えるものがあって・・・でも同時にそれらはうまくおさまっている・・・それです、よいのはまさにそれですよ!」
「私は階段はおさまっていると思います、というのは、こんなふうにすると壁をつくらずに二つの部屋にくぎることになるのですから!・・・そして同時によくありません・・・そしてこれがいいんですよ!」 フィリップ・ブードン「コルビュジェのペサック集合住宅」より
見たこともない斬新すぎる間取りに住民たちの戸惑う様子が浮かんでできますね。もともと「ブリコラージュ」(日本でいうところの日曜大工)が当たり前のフランスですから、週末やバカンスを利用して彼らは当然のようにこのモダンを改造し始めます。

「ねぇ、私の主人はもう36種の異なったプランを作りましたよ。」「これを整備することを知らなければなりません・・・利用することを知っている必要があるのです!・・・そうでなければ、この住宅は非常に快適で・・・堅牢なんですが!」
コルビュジェの不合理で限定的な間取りは、住民たちに創意工夫を起こさせます。連続する水平窓を小さくする、壁を好きな色に塗り替える、屋上テラスに屋根をかけたり、ピロティーをガレージやアトリエやワインの貯蔵室に改造するなどなど・・・
コルビュジェが提案したモダンと対話しながら、彼らは自分のライフスタイルをデザインし、この住宅と格闘していったのです。
コルビュジェはペサックで新しい時代・精神にふさわしい、新しいタイプの住宅を供給しようとしました。そしてそれはやがてフランス全土に広まっていくはずでした。しかし、なにが快適なのかを決めるのは住民のほうだったのです。
では、このペサックの集合住宅は失敗だったのでしょうか?当時の広告に「庭園やテラスは、各人が自由に発揮する心遣いと空想にお任せします。ル・コルビュジェ氏によって計画されたプランの方は、購入者の意のままにいたしましょう。」とあるそうです。
このペサックが住民の手を加えられる「ひらかれた建築」であったということなのでしょう。結果的に設計者の意図と住民の意見が食い違っていたとしても、コルビュジェが提唱した近代建築の五原則の中の「自由な平面」が実現している点に注目すべきではないでしょうか。
八十年以上前にボルドー郊外の街ペサックに完成した「フリュジェスのモダン街区」は、1980年正式にフランスの歴史的記念建造物に指定されます。そして現在、ユネスコの世界遺産への登録を目指し準備が進められていて、地域住民の権利・快適さと世界レベルの文化遺産の価値を両立させるという難しい保存活動が、長いスパンをかけて行われているのです。
東京/横浜アルキテクト ー(78)ー

カップ・マルタンの波間に消えたモダニスト ル・コルビュジェの建築 8
1926年、フランス南西部、ワインの名産地ボルドー近郊の町ペサックに見慣れない住区が現れました。
この地で砂糖工場を経営していたアンリ・フリュジェスは自分の工場で働く工員のために、当時イギリスのレッチワースで実現された田園都市をつくろうと考えました。
「建築をめざして」を読んでその論理的かつ進歩的な考え方に深く共感したフリュジェスは、この労働者のための田園都市の設計をコルビュジェに依頼します。

名称は「フリュジェスのモダン街区」。カンコンスタイプ(住戸が卍型に並ぶ)・グラットシェルタイプ(3階+屋上テラス)・双子タイプ(住戸の背面がつながる)・アーケードタイプ(二戸の住戸が半円形の屋根でつながる)などの住区がリズミカルに連なり、「高さ・幅・奥行きのプロポーションの均整のとれた、新しい時代の純粋さがもたらす美」が出現しました。

右手にグラットシェルタイプ、左手にカンコンスタイプが建ち並ぶ「ル・コルビュジェ通り」。橙色、緑、青といった色彩が特徴的。
労働者たちの生活に活気を与えるためにコルビュジェが採用したもの。


ペサックは、フランスにおける田園都市計画の最初の理論的実験であり、新しい時代にふさわしい美的センスの粋を凝らした住宅地になるはずでした。
が、建設当初、人々は松の木々のあいだに出来上がった不気味なこの四角い箱のような住宅をこう呼びました。
「冗談でしょ」、「フリュジェスの砂糖の塊」、「北アフリカのモロッコのカルティエ」・・・
コルビュジェの斬新な住宅は、彼らが知っているボルドーの典型的な小さな庭がついた赤い屋根の住宅とはあまりにもかけ離れていたのです。
その斬新さは、常識の範疇をはるかに逸脱したものであったために多くの反発を招き、市当局から入居の許可証が発行されず、水道も供給されずに長いあいだ放置されたままでした。
完成から3年後の1929年、ようやくペサックに水が供給されるようになり人々が暮らしはじめますが、またあらたな問題が起こります。
コルビュジェが考えた新しい時代にふさわしい生活環境、新しいタイプの間取りは、住民からは限定的で不合理なものとして受け止められ、それぞれに住まいを改良しはじめたのです。
ペサックの改造については、建築家のフィリップ・ブードンが1967年住民へのインタビューをもとに「ル・コルビュジェのペサック集合住宅」という一冊の本にまとめています。
ペサックの住民による住宅の改造を語る時によく引き合いに出されるコルビュジェの言葉・・・「常に正しいのは住民の生活である。しかし、文化的マーケティングのための理由付けのほうがこれを上回る」・・・
そうして新しい時代にふさわしい生活を提案しようとしたコルビュジェの建築と、ペサックの住民との対話とバトルが始まっていくのです。
東京/横浜アルキテクト ー(77)ー

カップ・マルタンの波間に消えたモダニスト ル・コルビュジェの建築 7
パリ、セーブル街にあらたにアトリエを構えたコルビュジェは、1925年に開かれたパリ装飾芸術国際博覧会、通称アール・デコ博にまたまた波紋を呼んだ「エスプリ・ヌーボー館」を出展します。

こちらがその「エスプリ・ヌーボー館」。現在はイタリアのボローニャに移築、保存され誰でも自由に見学できるようになっています。
真っ白なキューブに嵌め込まれた大きなガラス窓、四角く切り取られたヴォイド、半屋外のテラスに大きく吹き抜けたリビング、すべての部屋が屋上庭園に通じた構造。
アール・デコの装飾は全く無く、幾何学的要素だけで構成されていますが、表情の豊かさ、複雑さを感じさせるところがコルビュジェらしさです。

「エスプリ・ヌーボー館」は都市の過密を緩和するための集合住宅の1単位として設計され、その後のコルビュジェのユニテに見られる住居単位の基本形がほぼ出来上がっています。
「この建物の一体どこが装飾芸術なんだ!」「合理的で住んだら楽しそうな住宅だ!」アール・デコ装飾の展示館が立ち並ぶ中、異彩を放った「エスプリ・ヌーボー館」は批判と絶賛を同時に浴びますが、住宅に対するコルビュジェの思想や理論が世の中に広く注目されることとなったのです。

そしてもうひとつ。「エスプリ・ヌーボー館」の中で展示されたのが、「300万人のための現代都市」を発展させ、後の「輝く都市」へとつながる「ヴォアザン計画」です。
これは建物が密集したセーヌ川一帯のパリの中心市街地に、近代的な高層ビルが緑地の中に規則正しく立ち並ぶ街区をつくるというもので、パリでは実現しませんでしたが、それ以降の都市計画の考え方に多大な影響を与えました。
そしてこの年、コルビュジェは装飾や美しさに対する違和感と決着をつけるため一冊の本を出版します。そのタイトルは「今日の装飾芸術」。
この本の中にある挑発的な発言。「市民には古くさい壁掛けや花柄の壁紙、ステンシルの類を捨て去り・・・白いペンキを塗らなければならない義務がある!そして家は清潔になり人々も清潔になる!」
コルビュジェが「白」にこめた想いは、おそらくかつて「東方への旅」で出逢い、感銘を受けた、チルノボの農民たちの暮らしと住居の白い壁にあったのでしょう。
それは決して高尚な芸術論ではなく、普通の人々の生活が良くなることを願うという素朴な想いでした。
コルビュジェがパリの街中に白のキューブをちりばめていったこの時代は、後に「白の時代(ピュリズム作品)」と呼ばれるようになります。