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東京/横浜アルキテクト ー(26)ー

迎賓館赤坂離宮 ー4 時をこえるリビングジュエル
内部空間
今回は見学することができた迎賓館の室内を 紹介します。
日本の外交の表舞台として、各国の賓客を招いてきた迎賓館ならではの装飾様式が随所に見ることができます。
首脳会談や公式晩餐会などの様子が、時々テレビ中継されるので見覚えのある部屋があるかも。
朝日の間
朝日の間は、首脳会談などに使われる部屋です。また国賓が天皇陛下とお別れの挨拶をされる際にも使われる、迎賓館で最も格式の高い部屋だそうです。内装は18世紀のフランス古典主義様式で、天井に描かれた、朝日を背に受けた女神オーロラの絵画にちなんで「朝日の間」と呼ばれています。
羽衣の間
羽衣の名は、フランスの画家が描いた約200平方メートルの大きな天井画に由来しています。謡曲「羽衣」をモチーフにし、曲面画法という珍しい画法で描かれています。中2階にはオーケストラBOXがあり、もともとはここで舞踏会が催されていたのでしょう。フランスから輸入した重さ800kgのシャンデリアと当時では世界最大級という大鏡が華麗な部屋を演出しています。
彩らんの間
彩らんの間は条約や協定の調印式やテレビインタビューに使用されている部屋で、金箔をはった鳳凰の一種である「らん」という鳥のレリーフがあることから「彩らんの間」と名付けられています。室内の装飾は、ナポレオン1世の帝政時代に流行したアンピール様式と呼ばれるもので 、天馬・甲冑・獅子・矢などの軍体調のモチーフが特徴です。天井も戦場で天幕を張ったように見せる楕円形のアーチになっています。
花鳥の間
迎賓館のなかで、最も重厚な感じを与える部屋で、公式晩餐会はここで催されています。「花鳥の間」という名は、格天井の油絵や壁に飾られた七宝焼の材題が花と鳥であることに由来します。部屋の装飾はアンリー2世様式と呼ばれるもので、16世紀後半のフランスルネッサンス様式です。
そのほかにも見学はかないませんでしたが、イスラム色の強い、ムーリッシュ様式で造られた「東の間」やムクの大理石のオーダーで飾られた正面玄関から2階大ホールの華麗な空間、ローマンモザイクが貼られた廊下など、その質の高さはとても言葉では伝え切れません。
明治42年に完成した迎賓館に使用された、鉄骨・設備機器・家具調度品等の大半は欧米から輸入され、日本人だけでなく多くの欧米の芸術家も参画し、まさに日本の総力をあげて創られました。
「我建築界は今や済々たる多士を有す。其の技必ずしも泰西の建築家に下るにあらず」明治期の建築家たちは迎賓館の完成をみてこう語り合いました。西欧の建築を取り入れて40年ほど、やっと自分たちもその域にたどりついたという感覚があったのでしょう。
いわば迎賓館は、西欧に学んだ明治の様式建築の卒業証書ということなんですね。
東京/横浜アルキテクト ー(25)ー

迎賓館 赤坂離宮ー3 時をこえる リビングジュエル
主庭側 外観

こちらは正面の反対側にあたる主庭のある南面の外観です。賓客が宿泊する部屋などがこちら側に配置されています。
イオニア式の双子柱が美しいバルコニーが、ベルサイユ宮殿のデザインを模した部分のひとつといわれています。
他にもベルサイユの正面に飾られている、太陽王ルイ14世の騎馬像や王冠をあしらったブルボン家の紋章などの装飾も、きっと参考にしたんでしょうね。

これは、主庭の中央に置かれた噴水池。グリフィンの像が噴水の廻りを取り囲んでいて、これほど重厚さと優美さを兼ね備えた噴水は、日本にはあまり見られないですね。この噴水も建物とセットで国宝に指定されています。

こちらの写真は、ウイーンのホーフブルグの新王宮です。最初の「迎賓館」の写真と見比べると雰囲気がよく似ているのがわかりますね。
遠く離れたウイーンと東京で、同じ時期に同じ様式で創られた兄弟のような建物が、まだ残っているんです。ちょっと不思議な感じがしませんか?
東京/横浜アルキテクト ー(24)ー
迎賓館 赤坂離宮 ー2 時をこえる リビングジュエル
正面 外観
さて、引き続き、迎賓館の外観のデザインをもう少し詳しく見てみましょう。
外観は花崗岩でがっしりと造られたネオ・バロック様式の2階建で完全なシンメトリー(左右対称)な宮殿であり、その両翼を手前に広げて、人々を抱き迎えるような形をしています。
正面の中央玄関前、馬車廻り(車寄せ)が設けられた上部には、コリント式オーダー4本で特徴的な大きなペディメントを支えるデザインが目を引きます。外壁のなかでも最も込み入った彫刻が施されていて、写真ではわかりにくいのですが、菊花ご紋章 ・旭日賞 ・瑞宝章などの勲章や日本古来の武器を集めたレリーフが見られます。
屋根の上部の左右には、青銅製の甲冑や弓矢をまとった武士像が置かれ、その下の壁面には、芸術科学・殖産興業を表すレリーフが施されています。階段室部分の上部には、金の星をちりばめた天球儀とそれを支えるように4羽の翼を広げた霊長が飾られていて、一見すると、国賓を迎える宮殿にこれらの威圧的なデザインはどうなのかな?
と、違和感を感じさせますが、建立当時の世界は帝国主義の時代、欧米列強と戦える軍事力・経済力を示すことが、近代国家を目指す日本には必要だったのでしょう。
また後ほどご紹介しますが、同じことが部屋の内装にも現されていて、当時の西欧の好戦的ともいえるデザインが各所に使われています。

正面屋根に飾られたレリーフ。甲冑をまとった武士像と世界の覇権を主張するかのような
天球儀と霊長(架空の鳥)、初めて見るとちょっと驚きますよ。
東京/横浜アルキテクト ー(23)ー

迎賓館 赤坂離宮 ー1 時をこえる リビングジュエル
今回は迎賓館赤坂離宮を紹介します。
迎賓館では年に一度、国賓・公賓の少ない今の時期に、建物の1部が一般公開されています。(先行予約制ですが)
四ッ谷駅から外堀どうり越しに見える宮殿のような建物が迎賓館ですね。
迎賓館は、かつて紀州徳川家の江戸中屋敷があった広大な敷地の一部に、明治42年(1909)に東宮御所(皇太子のお住まい)として建設されたものです。
建物の構造は鉄骨補強煉瓦造地下1階・地上2階で、建物の規模は、延べ床面積4653坪・東西125M・南北89M・高さ23Mです。
外壁は花崗岩で厚く覆われ、壁厚は厚いところで1.88Mもあり、関東大震災でもびくともしなかったそうです。
設計の総指揮をとったのは片山東熊。J.コンドルの直弟子で、東京駅の辰野金吾の同期生です。西洋の宮殿に遜色のない立派な宮殿を建設することは、当時の建築技術のレベルでは極めて困難なことでした。
片山はバロック様式の代表であるフランスのベルサイユ宮殿・ルーブル宮殿を模範に、イギリスのバッキンガム宮殿なども参考にして設計したそうです。鳥の翼のように左右に張り出て湾曲した正面の外観はウイーンの新王宮にもよく似ています。
欧米の建築技術・建築美の粋を集めて建設された迎賓館は、日本唯一のネオ・バロック様式の宮殿建築であり、明治期の日本の洋式建築の集大成と呼べるものです。
迎賓館の中に入って頭に浮かんだのはリビングジュエルという言葉。 まさに時空をこえて生き続ける宝石のような建物です。
東京/横浜アルキテクト ー(22)ー

丸の内のクラシック建築をあじわう
明治生命館 ー4 記憶へのオマージュ
「歴史的建築物の保存と活用という文化保護の新たな観点に立ち、それを自ら実践することで、丸の内一帯の風格ある景観を守り、街の新たな活性化に貢献する」・・・平成になって、当時の所有者である明治生命はこの建物の全館保存を発表し、平成9年に明治生命館は国の重要文化財に指定されました。
そして2004年、明治生命館の全館保存と、その隣接地に超高層タワーを建設する再開発を両立させた「丸の内MY PLAZA」プロジェクトが完成しました。
超高層タワーの明治安田生命ビルと明治生命館は陽光を透すガラスの屋根で一体化され、本館部分の外壁洗浄と東面外壁の復元工事も完了し、新しい景観を創りだしています。洗浄によって本来の美しさを取り戻した石の外壁は、まばゆいばかりの輝きを放っています。このような超高層タワーと洋式建築の共存という手法には様々な見解があるとおもいますが、新築のタワーと遜色のない機能性と居住性をも実現することで、「歴史的建築物を積極的に活用することで保存する」というテーマに対する、ひとつの答えを見出すことができるのではないでしょうか。
明治生命館の改修工事に関った人たちは、異口同音にこう語るそうです。「このような建物はもう2度と建てられない」・・・
名建築を後世に残し、大切に保存するために、積極的に活用するという視点は、今後いっそう重要になってくると思います。
明治生命館と新築のタワーが、ガラス屋根 で一体化されたアトリウム。歴史を感じさせる豊かな空間を演出しています。
東京/横浜アルキテクト ー(21)ー

丸の内のクラシック建築をあじわう
明治生命館 ー3 明治生命館をつくった人々
明治生命館の建物概要・規模は、鉄骨鉄筋構造地下2階・地上8階建・延べ面積31.762?・軒高約31M(100尺)で、外装の石材には岡山県北木島産の花崗岩が使われています。
建築顧問は現東京大学建築学部1期生でJ.コンドルの弟子として三菱赤煉瓦街の建設に携わった曾根達蔵。
意匠設計は古典主義様式に精通し、「洋式建築の名手」と称された現東京芸大の岡田信一郎。後に、歌舞伎座・ニコライ堂などの改修工事を手がけたことでも有名ですね。
そして、後に東京タワーの設計を手がける内藤多仲が構造設計を担当するなど、明治生命館の建設には当時の建設界を代表する人々が多数関っています。
明治生命館の場所は、当時赤煉瓦の三菱2号館が建っていました。J.コンドルとともにその建設に携わった曾根は、当初2号館の解体に難色を示していたそうですが、岡田の強い進言によって現在の大規模な計画を受け入れたようです。
岡田もまたJ.コンドルの墓参りをして三菱2号館の解体の報告をした上で、設計に着手したそうです。しかし、岡田は着工後間もなく、急な病に倒れ急逝します。そして弟の岡田旋五郎が兄の意思を引き継いで明治生命館を完成に導きました。いろんなドラマがあったんですね。
左側のドーム屋根がある建物が三菱2号館。明治生命館の建設により、三菱の赤煉瓦街の中で最も早く解体される運命をたどることとなりました。
東京/横浜アルキテクト ー(20)ー

丸の内のクラシック建築をあじわう
明治生命館 - 2
今回は明治生命館の内部空間を観てみましょう。
内観も外観同様に古典主義の意匠で構成されていて、荘厳な雰囲気が漂います。
特に現在も営業室として使われている吹き抜けの大空間は、見る者を圧倒する存在感があり、空間の構成力と技術力の高さにはただただ驚かされます。また各所にディティールへのこだわりを感じさせる装飾が施されていて、「エッグ&ダーツ」・「ビーズ&リール」・「スクロール」・丸い花型の「ロゼッタ」といったギリシャ・ローマ建築から脈々と受け継がれてきた華麗な彫刻のデザインを観ると、巷でよく見かける単なるデコレーションとは違い、人間の悠久の歴史と叡智を感じさせます。もちろん明治生命館だけではなく、世界中の古典主義建築にも同じデザインが使われているわけで、これは理屈ではなく人類の暗黙の約束事なんですね。
明治生命館に漂う厳かな雰囲気は、なかなか言葉では伝えきれません。土曜・日曜に一般公開されていますので、興味のある人は一度足を運んでみてください。きっとロマンを感じさせてくれますよ。
吹き抜けを取り囲む廊下の様子。イタリア産ポティチーノクラシコなどの大理石が なんともいえない雰囲気をかもしだしていますね。
柱や壁に施されているのが、ギリシャ・ローマから受け継がれているデザイン。
東京/横浜アルキテクト ー(19)ー

丸の内のクラシック建築をあじわう
明治生命館 ー1
ちょっと寄り道をしましたが、再び丸の内のクラシック建築を巡っていきましょう。 今回は明治生命館です。
明治生命館の主要な意匠は、古代ギリシャ・ローマを源流とする古典主義の建築様式で構成されています。なかでもひときわ印象的なのは、建物の5層分を貫いて立ち並ぶ巨大なコリント式の列柱でしょう。西欧の古典主義建築にもひけをとらない圧倒的な存在感です。
この列柱には、エンタシスと呼ばれる、視覚矯正のための微妙なふくらみが付けられ、上部に行くほど細くなっています。そして柱頭には
紀元前から用いられている、アカンサス(西洋あざみ)の葉をモチーフにした伝統的なデザインが使われています。
建物全体は、重厚な石積みの基層階(グランドフロア)を築き、その上に列柱からなる主階(ピアノノービレ)を置き、さらにその上層に屋階(アティックストーリー))を乗せるという古典主義建築の伝統的な壁面三層分割の手法によって構成されています。
明治生命館が完成したのは、昭和9年(1934)3月、日本における古典主義建築の最高傑作との高い評価を得るとともに、たびたびの改修に際しても建設当時のデザインを大切に守り続けています。往時の姿を今に伝える明治生命館は、昭和の建物としては初めて国の重要文化財に指定されています。
コリント式列柱の柱頭を飾る優美なアカンサスの葉のモチーフ(若い女性のプロポーションをあらわしているそうです。失礼!)
明治生命館にはまだまだ特筆すべきものがたくさんあります、その辺りはまた次回に。
東京/横浜アルキテクト ー(18)ー

銀座煉瓦街 3
銀座煉瓦街は関東大震災によって壊滅的な被害を受け廃墟と化します。その後の帝都復興事業により、バラックとなった煉瓦街は一掃され、その生涯を閉じました。昭和60年代になってビルの建設現場から当時の煉瓦街の遺構が発見されます。それによると煉瓦街1区画の大きさは間口3間x奥行き5間の15坪だったそうです。このあたりはもともと入江を埋め立てた場所で、湿気がひどく、壁が多くて窓の少ない煉瓦住宅は当時の日本人の生活にはあまり適さず、住民はまどを大きく改造したり、間取りを変更したりしながら苦心して住んでいたそうです。政府から無理やり押し付けられた煉瓦住宅は当初不人気で空家も多かったようです。
しかし、築地の外国人居留地に近く、丸の内・日本橋の政治・経済の2大拠点に隣接した煉瓦街には読売・朝日・報知新聞をはじめとして20紙を超える新聞社が集まり、さらに通信社・雑誌社・出版社も次々と銀座煉瓦街に進出してきました。こうして新しい考え方・新しいニュース・新しい商品が集まる日本一の情報集積&発信基地として銀座煉瓦街は発展していったのです。

これは江戸東京博物館に展示されているジオラマです。当時の銀座煉瓦街のいきいきとした様子が伝わってきますね。
東京/横浜アルキテクト ー(17)ー

銀座煉瓦街 2
前回は、銀座煉瓦街建設の直接的なきっかけが都市の防火対策とスラム街の撤去であったという話をしましたが、本格的な防火都市の建設は明治14年(1881)に施行された火災予防事業「甲第二十七号」によってスタートしました。これは、主要な道路と運河に面する建物をすべて煉瓦造・石造・土蔵造りにすることを定めるとともに、日本橋・京橋・神田・麹町などの家屋に対して屋根を不燃材で葺くことを強制しました。計画は1887年に完了し、以後東京から大火がなくなったと言われています。そして銀座煉瓦街建設のもうひとつの理由は、伊藤博文・井上馨らが主導した欧化政策にありました。当時の日本外交の課題は幕末に結ばれた欧米列強5カ国との和親条約、いわゆる不平等条約の改正にありました。外務卿井上馨は、そのためにはまず中身はともかく、日本が欧米と比肩する近代国家であることを示すことが必要であると考え、銀座煉瓦街のほか「外国人接待所」としての鹿鳴館の建設、日比谷・霞ヶ関に役所を集中させる「官庁集中化計画」などを推進させました。
横浜から鉄道によって結ばれた新橋駅に降り立った外国の要人たちの目のまえには、ロンドンのリージェントストリートをおもわせるかのようなハイカラな銀座煉瓦街がひろがり、J、コンドル設計の鹿鳴館では夜な夜な要人をもてなす舞踏会が催され、そして霞ヶ関には文明国家のあかしである、司法省や東京裁判所などのバッロク都市をおもわせる壮大な建築が立ち並ぶ・・・
急激な欧化政策をとった井上馨はそんな近代国家日本の姿を思い描いていたのでしょうか。